【国際結婚】歩み寄るのが正解?異文化の壁で見つけた「私のあり方」

アメリカ生活

こんにちは!アメリカで1歳の娘と7匹の猫たちと暮らしているカリママです。

国際結婚で文化や価値観の違いをどう乗り越えればいいか悩みますよね。

最初は「へえ、そうなんだ」と流せていたことも、一緒に生活する時間が長くなるにつれて、少しずつ心に引っかかるようになるなんてことも…

この違いは、正解と不正解で分けられるものではありません。

たとえ頭では理解できても、心が追いつかないこともあると思います。

私も国際結婚をして、たくさんの「違い」を受け入れてきました。

でも、どうしても受け入れきれなかったものがあります。

それは、「ハンティング」(狩猟)です。

私は夫を否定したいわけではありません。

今日は、国際結婚をした私が、文化と価値観の違いの中で感じた「違和感」と、そこから見えた「私はこうありたい」という気づきを綴った記事です。

もし、同じような悩みを抱えている人がいたら、「一人じゃないよ」と伝わればいいなと思います。

※最初にひとつだけ。

この記事は、動物愛護を強く訴えるものでも、肉食を否定するものでもありません。

誰かの文化や生き方を攻撃する意図もありません。

日本で育った私の価値観が交差したときに感じた「違和感」と「葛藤」。

そして私が「こうありたい」と思うようになるまでの気づきを綴っているだけです。

夫の「ハンティング」に対する考えと、それに同意できない私

夫の家族は、昔から鹿を狩って食べてきたそうです。

話を聞く限りでは、おそらく祖父の代、もしくはそれ以前から続いている習慣。

特にサンクスギビングの前になると、親戚が一堂に集まり、森でキャンプをしながら鹿を狩ります。

それが「家族の伝統」なのだと、夫はごく自然なことのように話しました。

でも、その話を聞いたとき、私の中には一瞬で言葉にできない感情が広がりました。

それは、本当に伝統と言えるのだろうか
鹿を殺して、食べるの?
え…正直、怖いな」

頭では「文化の違い」だと理解しようとしましたが、心が先に拒否反応を起こしてしまったのです。


さらに私を戸惑わせたのは、その行事のために、夫が家を長く空けるという事実でした。

私たちにはまだ1歳の小さな子どもがいます。

私はアメリカという異国の地で、家族もいなければ、頼れる友人もほとんどいません

もちろん、夫には好きなことをしてほしいと思っています。

自分の人生や趣味を大切にしてほしいとも、心から思っています。

それでも、心のどこかで問いが浮かんでしまいました。

これは、本当に行かなければならない行事なのだろうか

私と娘を二人残してまで、優先されることなのだろうか

もし、私たちに何かあったら。
もし、緊急事態が起きたら。

森の中でキャンプをしている夫は、すぐに戻ってこられるのだろうか。

そんな考えが次々と浮かび、胸の奥がざわざわして落ち着かなくなりました。


夫を責めたいわけではありませんでした。

ただ、この状況を当たり前として受け入れられない自分がいました。

鹿を狩るという行為そのものだけでなく、それを「家族の伝統」として疑問なく続け、
家族よりも優先される空気に、私は強い違和感を覚えていたのだと思います。

その違和感は、怒りというより、不安と葛藤が混ざった、静かだけれど確かなものでした。

夫の「ハンティング」を正当化する言葉と私が感じた「違和感」

私の違和感が決定的になったのは、
とても些細な、日常の会話でした。

野生の鹿を見かけたとき、
夫の家族は冗談のように言います。

「どれくらいデカい?」

その言葉に、私は思わず凍りつきました。

まだ生きている存在を、すでに「獲物」として測っているように感じてしまったからです。

笑いながら交わされるそのやりとりは、私にはまったく面白くありませんでした。

冗談だから、深い意味はないのだと言われるかもしれません。

でも、冗談というのは、その人たちが何を当たり前として見ているのかが、無意識に表れるものだと思うのです。


私が違和感を口にすると、夫はよくこう言いました。

鹿は増えすぎているから、狩らないといけない

人間がそれを管理しているだけ

確かに、そうした考え方があることは理解できます。

アメリカでは、狩猟が個体数管理の一環として語られることも多いです。

それでも、私の中のざわつきは消えませんでした。

もし本当に「管理」が目的なのだとしたら、
なぜそれが娯楽になり、笑顔で語られ、冗談の対象になるのでしょうか?

その問いが、頭から離れませんでした。

夫を理解しようとしたけれど「葛藤」した私

それでもハンティングを理解しようとしました。

国際結婚をした以上、価値観の違いに直面することは避けられない。

そして、彼が大切にしてきたものを、頭ごなしに否定したくなかったからです。

狩猟は合法で、管理の一環で、彼の家族は食べるために行っているのだと理解しようとしました。

彼の意見を尊重しよう、と何度も自分に言い聞かせました。

でも、どうしてもできませんでした。

理屈ではなく、感情でもなく、もっと根源的なところで、私の体が拒否してしまったのです。


銃を持ち、自らの意思で、遠くから引き金を引いて命を奪う。

その行為を想像するだけで、胸の奥が締めつけられるような感覚がありました。

私の中では、それはどうしても攻撃的で、傲慢で、非人道的な暴力行為として結びついてしまいました。

それが「趣味」だと言われると、なおさら受け入れがたく感じてしまったのです。


夫自身は、優しく、思いやりのある人です。

日常生活の中で、暴力的な人では決してありません。

それでも、「その夫が、命を奪う選択をしている」という事実だけで、私の中では強い違和感が消えませんでした。

人は、ある一面だけでできているわけではないと分かっています。

それでも、その行為が持つ重さを考えると、見ないふりをすることができなかったのです。


私は、自分でも驚くほど、はっきりとした拒否反応を示していました。

頭で考える前に、体が緊張し、心が遠ざかる。

「理解しなければ」
「尊重しなければ」

そう思えば思うほど、自分を裏切っているような感覚が強くなったのです。


このとき、私は初めて気づいたのだと思います。

理解しようとすることと、自分の感覚を押し殺すことは、同じではないということ。

相手を尊重するために、自分の違和感を無かったことにする必要はない。

そう思うようになりました。

私が「こうありたい」と気づいた時

私は、過激な動物愛護を掲げているわけではありません。

肉を食べない人間でもありません。

日常生活で肉を口にします。

だからこそ、自分の感じている違和感が矛盾しているのではないかと悩んだこともありました。

それでも、考え続ける中で、少しずつ自分の中で整理できたことがあります。

それは、「命を奪うこと」と「命をいただくこと」は、同じではないという感覚でした。


日本で育った私は、食事の前に「いただきます」と言います。

それは、作ってくれた人への感謝であり、そこに至るまでに失われた命への感謝でもあります。

命を奪わずに生きられないからこそ、その事実を軽く扱わない。

私は、その感覚を大切にしたいと思っています。


私は夫の価値観を尊重しています。

彼が大切にしてきたものを、否定したいわけではありません。

でも、尊重と同意は同じではありません

銃を持ち、自らの手で命を奪う行為に、私は同意できません。

そして、その価値観や行為を、家庭や子どもの世界に持ち込んでほしくない、そう思っています。

だから私は「こうありたい」と、自分の中で線を引くことにしました。

まとめ

この記事を書きながら、私は改めて思いました。

文化の違いそのものが問題なのではなく、その違いに直面したときに、自分が何を大切にしたいのかを見失ってしまうことが、一番つらいのだということを。

私は、過激な主張をしたいわけではありません。

誰かの生き方や文化を否定したいわけでもありません。

ただ、自分の中に生まれた違和感を無視せず、「私はこうありたい」と立ち止まって考えたかったのです。

国際結婚の中では、理解し合うことが美徳のように語られることが多いです。

でも、理解しようとすることと、自分の感覚を押し殺すことは、同じではありません。

尊重しながらも、同意しない。歩み寄りながらも、境界線を引く。

それもまた、誠実な選択なのだと思うようになりました。

もし今、文化や価値観の違いの中で、言葉にできないもやもやを抱えている人がいたら。

その違和感は、あなたが大切にしているものを教えてくれているのかもしれません。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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